この世にはたくさんの娯楽やコンテンツ、趣味が存在しているうえ、次々と新しい傑作も誕生するため、一生掛かっても楽しみつくす事ができません。限られた時間の中で、できるだけ幅広く、そして多くのコンテンツを楽しむと同時に自らも創作に挑戦したり、身体を動かして精一杯楽しみたいと思っている人間は私だけでは無いはずです。
限られた好きな物を大切にする事ももちろん尊いと思いますが、趣味や好きな物の幅が広くて趣向が全然つかめないと言われた事もある私としては、深いだけでなくより間口を広げて色々な物を楽しまないと損だと思っているので、趣味や娯楽を楽しむ事を妨げる障壁の存在や、それへの考え方を書いていきます。
楽しむ権利は全ての人が持っているという前提
まず前提として、資格・免許制のアクティビティなどを除いて、娯楽や趣味を楽しむ権利は誰にでもあるという事です。立場や境遇・嗜好によってその権利が脅かされるのはあってはならない事だと思います。
他人や自身のイメージなんて楽しい事の前では無意味
何かを好きな事で他人からの印象が悪くなるとか、自身のイメージ的にこれとは距離を置いた方が良いなどの、どう思う・思われるかという観点の優先度を、好き・楽しいより上にしてしまうのは非常にもったいないと思います。
印象というものは社会生活を送る上で無下にはできませんが、趣味嗜好の種類でその人の印象や評価が大きく変わるというのは、当人とコンテンツ両方に対する偏見だと私は考えます。その人のイメージを形成する情報が他にない場合は仕方ありませんが、身近な人に対してはその人自身と趣味嗜好は切り分けて考えるべきです。
1980年代はオタクバッシングが苛烈だったようですが、当時その渦中に居た人の一部の話では、社会的な死だけでなく、肉体的・精神的な死も覚悟するほど叩きがひどかったとのことなので、このような偏見は軽度でも繰り返されるべきではありません。
人の恐怖感や嫌悪感を刺激するような「人を選ぶ」とされるデリケートなコンテンツも存在しますが、その嗜好をその人の性質すべてと捉えるのは乱暴ですよね。
上述したように、趣味嗜好ひとつで手の平を返すような考え方はそれ自体が異常なので取るに足らないという事と認識しましょう。それで人間関係に影響が及ぶようならばそれは取るに足らない関係だったという事です。
それ以前に他人に自分の嗜好をオープンにする義理はこれっぽっちもないので「雉も鳴かずば撃たれまい」という言葉も留めておきましょう。
出来・不出来は関係ない
才能の有無や、要領の良し悪しといった出来・不出来で趣味やアクティビティを諦めてしまうのももったいないです。芸術だろうとスポーツだろうと、そもそも個人の趣味は誰かに披露したり批評を受ける必要性は全くありません。1人で黙々とやってたって何も問題は無いのです。
仮にコミュニティに属したとして、そこで侮辱にも似た批評を受けたり、出来・不出来のカーストが鼻につくようならば、そのコミュニティが幼稚なのでさっさと離れる事をオススメします。
第三者の批評に気を病んだり耳を傾ける必要もありません、何でも物事を比べては優劣をつけたがる人は、大概は自分自身を元に比較している訳ではなく、自分が知っている上手な人と比べて批評をしています。言わば虎の威を借りている状態です。
具体的には『(俺の知っているプロと比べて)お前は下手だな』といった具合ですね。本人のしたり顔が目に浮かびますが、やっている事は野次を飛ばすスポーツ観戦者と同レベルなんですよね。こんなもの気にするだけ無駄だと思えてきますね。
世界を広げる程、元々好きだった物が更に好きになる
興味の間口を広げすぎると、これまでの好きな物が薄れてしまうという狭く深くの考えを持っている方も私の知人に居ましたが、逆に私はたくさんの事に関心を持っていた方が、元々好きな物への愛情が深まると考えます。
興味・関心を広げて多くのコンテンツを楽しむと見識が徐々に広がり、気付かなかった作品の機微などに気付くようになったり、パロディ・オマージュの元ネタや作品のルーツが分かるようになります。
作品を鑑賞するという受動的な楽しみ方の中に、考察をしたり気付きを得るという能動的な楽しみ方が出来るようになってコンテンツの充実度がぐっと上がります。
私の好きなHIPHOPミュージックでは、一般曲からメロディーを抜き出して新たなバックトラックを生み出す『サンプリング』という手法を用いた曲が数多くあり、その曲のルーツを探るという意味で、サンプリング元の名曲を調べる事も楽しみのひとつです。
以上、今まで人と趣味嗜好の話をしてきた中で、楽しむことに余計な壁を設けている人が割と多いような気がしたので、そんなものは必要ないよ!という記事を書きました。余計な事は考えず、自分の興味関心に素直になっていいと思います。